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2014年7月23日水曜日

23. 人間の無意識の潮流と神秘学

そして、こうした個人個人の人間の意識の流れは、実は、もっと大きな社会といった人間集団の意識の流れに由来していて、一見自由そうに見える個人の人間の意識の流れはこの人間集団に強く影響を与えられていて、むしろ自由などどこにもないようなありようをしているのではないかと思うわけです。しかも、こうした人間集団の影響は、「表」つまり「顕在意識」に顕れてくるものばかりではなく、むしろ「裏」というか「深層」の「潜在意識」として作用しているものが多いのではないかというわけです。私たちはこのような「潜在意識」をよく「無意識」などと呼びます。

みなさんもご存知の有名な精神分析学者や心理学者と言えば、ジークムント・フロイトやカール・グスタフ・ユングでしょうか。彼らは、この「無意識」というものの存在を、私たちのように特に学者でもない普通の人でも知るほどに大変有名にしました。

さて、個人個人の人間の顕在意識の流れを含む人間集団の顕在意識の流れが様々な事件をターニング・ポイントとして引き起こす人間の「歴史」というものを作っているわけですが、こうした人間の「表」の意識の潮流の下に、「無意識」と呼ばれる人間の潜在化した意識の潮流があると考えるのです。この表現は、ちょっと地球全体の海流の運動に似ていないでしょうか。

地球の海洋における規模の大きいほぼ一定した表層の流れのことを「海流」と呼びますが、その深層に何と2000年もの時間をかけて循環する「深層海流」というものがあると言われています。私たちが知っている世界の深層にも、実は、この表層の海流に対する深層海流に似た無意識の脈動のようなものがないだろうかというわけです。


図1 深層海流の循環の様子
http://www.nhk.or.jp/school/junior/yougo37.html#006 より)


図2 海流および歴史の流れの表層と深層

実際、人間の表の歴史は時の権力者たちによって都合よく捻じ曲げられた文献だけが残されることが多いため、かろうじて生き残った真実の歴史の証拠となるような文献や言い伝えなどは、権力者たちの目に晒されぬことのないよう巧みに掻い潜りながら、歴史の裏舞台を人から人へと断片的な情報として伝承され続けているのではないでしょうか。そこには、歴史という名の光を拒絶し、歴史上から消しても消しても消すことのできない「創造の息吹」のようなものを脈々と受け継いでいるのだと思います。このような表の歴史という目で見たり、触れて感じたりすることのできない情報群のことを「オカルト」(occultism)と呼び、その情報群の体系を「神秘学」(オカルティズム;occultism)と呼びます。

現在の「自然科学」や「人文科学」といった学問体系が表の歴史の系譜を受け継ぐものとすれば、「神秘学」は裏の歴史の系譜を受け継ぐ存在だと言えるでしょう。
それは、私にこんな物語を描かせてくれます。太古の昔、この「自然科学」と「人文科学」はまるで永遠の愛を誓う指環のように繋がっていたのだが、あるとき、それは神の怒りに触れ、2つに分断され、別々の道を歩まさせられることとなった。そして、その結び目の痕跡だけが残された。しかし、元々一つに繋がっていたときの「創造の息吹」は秘密の暗号をかけられ「神秘学」の中に巧みに隠されており、今か今かと召喚されるタイミングを図っているというわけです。

ある意味、ヌーソロジーは、この「自然科学」と「人文科学」を再び結び直すプタハの結び目として機能する「神秘学」の系譜に位置する存在なのではないでしょうか。次頁に「ヌーソロジー」の神秘学的系譜を示す図があります。これについては特に説明をしませんので、参考程度に見ておいて下されば結構です。


図3 神秘思想(オカルティズム)の系譜(DVD『NOOS LECTURE LIVE 2009-2010 Vol.2』より)

2014年7月4日金曜日

22. この「私」とは何者であるか?

さて、私たちは21世紀になると輝かしい未来が訪れるかと思いきや、様々な問題が露呈し、ますます閉塞感が強くなってきているのではないでしょうか。

ヌーソロジーの目的は、そうした状況を生み出してきた人間観・世界観・宇宙観にメスを入れるべく、今までにない全く新しい人間観・世界観・宇宙観の構築を目指しています。
ヌーソロジーは、「神はかく語りき」みたいな、一方的押し付けのような、受動的立ち位置を要求するような物言いはしません。物事を鵜呑みにせず、感性を大切にし、自分の頭で考え、意識的に生きる――あくまで一人一人が自分自身で考える能動的立ち位置を要求します。だから、安易に誰かから「正解」をもらうような受動的なあり方は、意識が「起きている」とは言えません。自分自身であーでもない、こうでもないと考えていく、そのプロセスこそ大事だと思います。そのとき、ヌーソロジーの考え方が一つの手掛かりとなり、手助けとなるのではないでしょうか。私はそう考えています。

この絵を見て下さい。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』

(フランス語: D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)
       作者    ポール・ゴーギャン
       制作年   1897年 - 1898年
       素材    油彩、カンヴァス
       寸法    139.1 cm × 374.6 cm (54.8 in × 147.5 in)
       所蔵    ボストン美術館(ボストン)

この絵画は、フランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけてタヒチで描いた絵画で、ゴーギャンの作品のうち、最も有名な絵画の一つです。タイトルは、『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』と言います。このとき、ゴーギャンは自殺を考えていて、この絵画を描いた後に自殺未遂を起こしています。ウィキペディアに以下のような説明があります。

「絵画の右から左へと描かれている3つの人物群像がこの作品の題名を表している。画面右側の子供と共に描かれている3人の人物は人生の始まりを、中央の人物たちは成年期をそれぞれ意味し、左側の人物たちは「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」であり、老女の足もとには「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」とゴーギャン自身が書き残している。背景の青い像は恐らく「超越者 (the Beyond)」として描かれている。この作品についてゴーギャンは「これは今まで私が描いてきた絵画を凌ぐものではないかもしれない。だが私にはこれ以上の作品は描くことはできず、好きな作品と言ってもいい」としている。
この作品はゴーギャンのポスト印象派の先駆けとも言える。自身の感情、印象派的な技法を強く追求するあまり、鮮やかな色彩、明確な筆使いといった印象派の手法を否定する結果となり、20世紀のキュビズム、フォービズムなどといったアヴァンギャルドの前兆となった。」(ウィキペディアより)

この絵画のタイトルになっている『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』は、われわれを1人称複数から1人称単数にすれば、
 
 私はどこから来たのか 私は何者であるか 私はどこへ行くのか

となります。

私たちはふつう、この「私」という存在をふだんはそれほど意識していません。では、どんなときに意識するかというと、自らに関わる問題が起きたときです。「もう俺 なんてダメだ。死んでしまいたい。」とか、「なぜ俺だけこんな目に遭うんだ。一体俺がどんな悪いことをしたと言うのだ。」とか思い悩むような場面に遭遇したとき、「俺」「私」といった1人称の存在が意識に立ち現れます。つまり、「私」は極めて「非日常」な出来事である「問題」に直面したときに、くっきりとした輪郭をなすかのように、この意識に立ち上ってくるわけです。逆に言えば、「日常」的な事象の流れの下では「私」という存在はほとんど意識されることがありません。ただ目の前に起きる状況に対して、その流れを乱すことなく、適切に対処して作業をこなしていくだけの日常生活があるだけです。この極めて日常的な流れこそ、個人個人の人間の意識の流れではないでしょうか。

2014年7月3日木曜日

21. シリウスのハーベスト・プログラム

さて、読者にとってあまりに印象的だったこの「2013」という数字は著者の半田広宣氏にとってもそれだけ重要だということで、その後、現在までに刊行されている半田広宣氏のヌーソロジーに関するすべての著作に冠されています。すべて列挙すると、『2013:人類が神を見る日』(徳間書店、1997年)、『2013:シリウス革命』(たま出版、1999年)、『光の箱舟-2013:超時空への旅-』(砂子岳彦氏との共著、徳間書店、2001年)、『超知ライブラリ SCIENCE 004 2013:人類が神を見る日 アドバンストエディション』(徳間書店、2008年)として再版され、今年にはとして『2013|世界はグレンとひっくり返った 反転の創造空間《シリウス次元》への超突入! いつでも「今」どこでも「ここ」 驚異のScience & Spiritual メタモルフォーゼ情報!』(中山康直氏との共著、ヒカルランド、2014年)の5冊です。

この半田広宣氏の一連の著書のタイトルや「次元交替化のサイクル」の図以外にも、「2013」が登場する気になる箇所がありました。それが『2013:人類が神を見る日』の初版本のp.95に掲載されていた「シリウスのハーベスト・プログラム」と呼ばれるものでした。「シリウスのハーベスト・プログラム」を一部冥王星の位置関係と対応させながら、具体的に書き出すと、以下のようになります。

冥王星の位置とシリウスのハーベスト・プログラム
 (『2013:人類が神を見る日 アドバンスト・エディション』p.53, p.91より)

最後の「入神」とは、まるで宗教などで説かれる神様そのものにでもなるかのような表現ですが、これは、ヌーソロジー的に言えば、「人間」という意識次元から「変換人」という意識次元を経由して「ヒト」と呼ばれる意識次元に移行することを意味します。

この「シリウスのハーベスト・プログラム」の年表を見た感じでは、前半は10進法的差異でターニング・ポイントが来ており、後半は12進法的差異でターニング・ポイントが来ているというふうにも取れます。これらプログラムのうち、ヌース元年と呼ばれる、半田広宣氏が冥王星のOCOTとの交信を開始した年である1989年を起点に、私なりに想像を膨らませて、空間観察子・次元観察子・大系観察子・脈性観察子という4種類の観察子と絡めて、双対4進法的構図で書き直してみました。それが次頁のタイム・テーブルです。もちろん、このタイム・テーブルは、あくまで、私、Φ=WHY?が「シリウスのハーベスト・プログラム」をベースに独自解釈したものですので、あくまで一つの見方でしかありません。


Φ=WHY?解釈の「シリウスのハーベスト・プログラム」的タイム・テーブル

これで見ると、8個ずつでセットのちょうど境目に当たる年にはいろいろ日本や世界を大きく変える出来事が起きていたことが見えてきます。1989年はベルリンの崩壊に始まる共産主義世界の崩壊、1995年は日本の安全神話を揺るがした阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、2001年はアメリカ合衆国の同時多発テロ、2008年はリーマン・ショックが起きました。別に、このタイム・テーブルは、いわゆる予言もののような、悔い改めないとよくないことが起きてトンデモないことになるといった類のものではありませんから、そうした不幸な事件を敢えて掲載していません。

このタイム・テーブルで見れば、2013年および今年2014年というのは、ブロック(Ⅳ)からブロック(Ⅴ)への移行期であり、何か本格的な意識次元の移行の兆候がいよいよ始まる時期と考えてもいいのかもしれません。

いや、逆に言えば、全体的な意識の流れ、精神の運動の反映として、こうした壮大な時間の流れが生み出されているとも言えます。だからこそ、「歴史は繰り返される」と言われるような構図が描かれることになるのではないでしょうか。その全体的な意識の流れこそ、人間にはまだ知り得ない無意識の潮流であり、生命のダイナミックな躍動感とも直接的に繋がっていくものなのではないでしょうか。

例えば、人間が眠っている間に見る夢は、様々な知識やイメージが、常識では考えられないような形で有機的に結びついていて、それにもかかわらず、それを見ている者にとってはなぜか違和感がなく、納得できるような感じで受け取られています。もちろん、目覚めてから、その夢の全体を憶えていたとしても、全然辻褄が合っていないと思うでしょう。ヌーソロジーが行っていることもまた、人間が意識下で、よく言えばきちんと「整理された」、悪く言えば細かく「分断された」情報群の、元の形を再生しようとする作業なのかもしれません。

では、これから、そんな人間の無意識の潮流へと触れていくことにしましょう。

20. 「2013」と次元交替化のサイクル

まだ西暦年としてはノストラダムスの「1999」の方がポピュラーだった1997年、半田広宣氏のヌーソロジーに関する最初の著作である『2013:人類が神を見る日』に冠された年として、私は「2013」という数字を最初に目撃しました。筆者の意向か出版社の意向かは別にして、『2013:人類が神を見る日』というタイトル自体、映画『2001:宇宙の旅』を真似たものであることは明らかでしたが、それは同時に、これからの新しい時代のオデッセイとなるようなもの、宇宙叙事詩とでも言うべきものを目指しているような内容だと面白そうだなという期待感もありました。

実際、『2013:人類が神を見る日』の初版本のp.82には、「次元交替化のサイクル」という壮大な意識変遷の図の中の一つのターニング・ポイントとして、この「2013」は登場します。この「次元交替化のサイクル」というのは、人類全体の意識の次元が「覚醒期」→「調整期」→「覚醒期」→「調整期」と移行していくサイクルのことです。

次元交替化のサイクル
(『2013:人類が神を見る日 アドバンスト・エディション』p.79より)

このサイクル1周分は人間の時間では約26,000年とされていて、それはちょうど、地球の自転軸が太陽に対する黄道面に対して約23.4度傾いていることによって生じる「歳差運動」の周期(正確には、約25,800年)の年数に相当します。これは言い換えれば、天球面上で地球から見られている太陽が黄道を一周する年数だとも言えます。その意味では、大雑把には天球の1自転の周期と言ってもいいのかもしれません(ちなみに、天球上では、天の北極は黄道の北極に対して約25,920年かかって一周します)。

参考までに、天文学的には、実際の太陽系は、天の川銀河の中心から約25,000光年離れたいて腕とペルセウス腕の間にあるオリオン腕というところに位置しています。この太陽系が銀河中心に対する公転周期は1銀河年と呼ばれ、正確には約2.25億年から2.5億年だそうです(銀河年と地球歳差周期をヌーソロジー的にどう対応付けてみるかを考えてみるのも、一つ面白い観点かもしれませんが、ここではあえて深入りしません)。

地球の歳差運動
(自然科学研究機構 国立天文台のサイト http://www.nao.ac.jp/faq/a1007.html より)

この「次元交替化のサイクル」と同じような図は、他にも、『2013:シリウス革命』のp.592にも、「真実の26,000年と薔薇十字」という渦巻き状の図としても表されます。

真実の26,000年と薔薇十字(『2013:シリウス革命』p.592より)

この「次元交替化のサイクル」の図にしろ、「真実の26,000年と薔薇十字」の図にしろ、結局のところ、円に2本の直交する直線を交差させた図形である、いわゆる、「丸十字」を基本にしています。しかも、じっとこうした図を眺めていると、何だか、この「丸十字」の平面を視界とする世界に、鋭く突き刺してくる視線を感じます。

丸十字記号

「丸十字」の記号と言えば、歴史的にもいろいろな分野で古くから使われている記号であり、ドルトンの原子記号では硫黄の記号として、占星術などの惑星の記号としては地動説以降、地球の記号として使われています。

この「次元交替化のサイクル」や「真実の26,000年と薔薇十字」に見られる「丸十字」のイデア的な構図が、数学の複素数平面上の単位円の図だと言うと、トンデモだといわれるでしょうか。実際、この複素数平面上の単位円の図は、『2013:人類が神を見る日』の初版本のp.245とp.252に、「オイラーの公式」とともに描かれています。

オイラーの公式と複素数平面上の単位円
(『2013:人類が神を見る日 アドバンスト・エディション』p.234より)

この図上で横軸の「1」のところにあった点は虚数単位「i」を1回掛けるごとに、1(横軸)→i(縦軸)→-1(横軸)→-i(縦軸)と遷移し、4回掛けると元のところに戻ります。私はこの4つの状態を遷移する図から、イメージされる世界観を、まるで本の見開きのような図にして描いてみました。

0→1→2→3という数の流れの前半が内側の見開き、後半が外側の見開きに描かれていることから、1回目の内側の回転で0→1を通過し、2回目の外側の回転で2→3と通過するという2回転として見ることができます。これは、「2013」という数字を使った、ちょっとしたお遊びでもあります。

「2013」が示唆する構造的意味

19. ヌーソロジーの理解の仕方のヒント

結局のところ、ヌーソロジーをどのように捉え、どのように理解していくかは、人それぞれということになるわけだが、そうは言っても、どのようにアプローチしていいか、全く見当がつかない人のために、ここで、「ヌーソロジーの理解の仕方」のヒントを一つ紹介しておきましょう。

まず、ヌーソロジーは、構造的には、人間の精神構造の発展形式として表現されていく。その精神構造こそ「観察子」という概念が関わってくるわけですが、中でも、私たちのようにまだ思考形式が潜在化していて目覚めていない「人間」が「変換人」となり、やがて「ヒト」という精神構造へとシフトしていく発展形式こそ、「次元観察子」と呼ばれるものです。したがって、この次元観察子をどのように捉え、理解していくかが鍵になってくるわけです。ヌーソロジーでは、現代哲学・思想や、素粒子物理などとも関連付けながら、その精神構造のイメージを作っていきます。そこで、そうした学問分野とどのように関連付けられるのかを、まずは簡単に眺めておきましょう。
ヌーソロジーの理解の仕方のヒント・1

ヌース・レクチャーのビデオなどを見ていると、次元観察子前半(下次元)のψ1~ψ8は、既存の学問分野では、主として、自然科学系、特に、物理学、中でも、素粒子物理学との対応で語られることが多いようです。また、次元観察子後半(上次元)のψ7~ψ14は、既存の学問分野では、主として、人文科学系、特に、哲学、中でも、ドゥルーズ=ガタリの哲学との対応で語られることが多いようです。

もう少し具体的に見ておきましょう。

まず、素粒子物理学の発展によって、宇宙のあらゆるものは、「フェルミオン」と呼ばれる物質粒子と、「ボソン」と呼ばれる力の媒介粒子から出来ており、宇宙の始まりの時点では高い対称性を持って、同一の量子構造を持っていた粒子が、やがて、より低い対称性を持つ存在へと、降下していく過程において、「自然界の4つの力」と呼ばれる、重力・強い力・弱い力・電磁気力が分化していきました。ヌーソロジーでは、この各対称性を持つ空間こそ、観測者-対象を1セットとする空間に対応し、その対称性の違いがそのまま精神構造の階層の差異というふうに捉えているようです。実際、既刊の書籍では、ψ1~ψ2を時空として、ψ3~ψ4がU(1)ゲージ場=電磁場、ψ5~ψ6がSU(2)ゲージ場=弱い力の場、ψ7~ψ8がSU(3)ゲージ場=強い力の場と対応させているようです。

続いて、次元観察子後半のψ7~ψ14については、ドゥルーズ=ガタリの『アンチオイディプス』に登場する、原始土地機械・専制君主機械・資本主義機械という欲望機械に対応させているようです。具体的に言えば、ψ7~ψ8を原始土地機械、ψ9~ψ10を専制君主機械、ψ11~ψ12を資本主義機械とし、ψ13~ψ14は、それら自己の欲望機械に対して、他者の原始土地機械・専制君主機械・資本主義機械を対応させています。

ヌーソロジーの理解の仕方のヒント・2
 
こうした対応が果たして妥当かどうかは、みなさんが吟味してみて下さい。とりあえず、このような対応が掲げられていることだけ、挙げておきます。