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2014年7月4日金曜日

22. この「私」とは何者であるか?

さて、私たちは21世紀になると輝かしい未来が訪れるかと思いきや、様々な問題が露呈し、ますます閉塞感が強くなってきているのではないでしょうか。

ヌーソロジーの目的は、そうした状況を生み出してきた人間観・世界観・宇宙観にメスを入れるべく、今までにない全く新しい人間観・世界観・宇宙観の構築を目指しています。
ヌーソロジーは、「神はかく語りき」みたいな、一方的押し付けのような、受動的立ち位置を要求するような物言いはしません。物事を鵜呑みにせず、感性を大切にし、自分の頭で考え、意識的に生きる――あくまで一人一人が自分自身で考える能動的立ち位置を要求します。だから、安易に誰かから「正解」をもらうような受動的なあり方は、意識が「起きている」とは言えません。自分自身であーでもない、こうでもないと考えていく、そのプロセスこそ大事だと思います。そのとき、ヌーソロジーの考え方が一つの手掛かりとなり、手助けとなるのではないでしょうか。私はそう考えています。

この絵を見て下さい。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』

(フランス語: D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)
       作者    ポール・ゴーギャン
       制作年   1897年 - 1898年
       素材    油彩、カンヴァス
       寸法    139.1 cm × 374.6 cm (54.8 in × 147.5 in)
       所蔵    ボストン美術館(ボストン)

この絵画は、フランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけてタヒチで描いた絵画で、ゴーギャンの作品のうち、最も有名な絵画の一つです。タイトルは、『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』と言います。このとき、ゴーギャンは自殺を考えていて、この絵画を描いた後に自殺未遂を起こしています。ウィキペディアに以下のような説明があります。

「絵画の右から左へと描かれている3つの人物群像がこの作品の題名を表している。画面右側の子供と共に描かれている3人の人物は人生の始まりを、中央の人物たちは成年期をそれぞれ意味し、左側の人物たちは「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」であり、老女の足もとには「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」とゴーギャン自身が書き残している。背景の青い像は恐らく「超越者 (the Beyond)」として描かれている。この作品についてゴーギャンは「これは今まで私が描いてきた絵画を凌ぐものではないかもしれない。だが私にはこれ以上の作品は描くことはできず、好きな作品と言ってもいい」としている。
この作品はゴーギャンのポスト印象派の先駆けとも言える。自身の感情、印象派的な技法を強く追求するあまり、鮮やかな色彩、明確な筆使いといった印象派の手法を否定する結果となり、20世紀のキュビズム、フォービズムなどといったアヴァンギャルドの前兆となった。」(ウィキペディアより)

この絵画のタイトルになっている『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』は、われわれを1人称複数から1人称単数にすれば、
 
 私はどこから来たのか 私は何者であるか 私はどこへ行くのか

となります。

私たちはふつう、この「私」という存在をふだんはそれほど意識していません。では、どんなときに意識するかというと、自らに関わる問題が起きたときです。「もう俺 なんてダメだ。死んでしまいたい。」とか、「なぜ俺だけこんな目に遭うんだ。一体俺がどんな悪いことをしたと言うのだ。」とか思い悩むような場面に遭遇したとき、「俺」「私」といった1人称の存在が意識に立ち現れます。つまり、「私」は極めて「非日常」な出来事である「問題」に直面したときに、くっきりとした輪郭をなすかのように、この意識に立ち上ってくるわけです。逆に言えば、「日常」的な事象の流れの下では「私」という存在はほとんど意識されることがありません。ただ目の前に起きる状況に対して、その流れを乱すことなく、適切に対処して作業をこなしていくだけの日常生活があるだけです。この極めて日常的な流れこそ、個人個人の人間の意識の流れではないでしょうか。

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